内湾の疑問や悩み - ナレッジリーフ@知識の葉

Yahoo!知恵袋疑問や悩みを検索

知恵袋Q&Aで悩みを解決!

-PR-
  • ニュース、政治、国際情勢 > 災害
  • Thu, 03 Oct 2019
  • 質問No. 7588633

解決
済み
Q 内湾の疑問や質問

  • 閲覧数12
  • 質問総数5

A内湾のQ&A回答一覧

    Yahoo!知恵袋

    • 投稿日時 - Thu, 03 Oct 2019 15:37:04
    • 閲覧数 12
    質問

    横浜シーサイドライン沿いは
    津波が来たらアウトですか?

    ハザードマップを見たら
    関内周辺も津波くるそうですが
    関内よりシーサイドライン沿いの方が危険ですか?
    アンサー
    回答

    東京湾は、入り口が狭く奥が広いので、東北のような津波は来づらいです。
    チリ地震の時の津波も、最大30cmくらいでした。

    関内周辺は、更に内湾の横浜港に位置します。
    大差ないでしょう。
    ニュース、政治、国際情勢 > 災害
    詳しくはこちら
    • 同意数13(19-6)
    • 回答数2
    • 投稿日時 - Tue, 01 Oct 2019 16:56:19
    • 閲覧数 5
    質問

    寿司ネタで有名なミル貝、トリ貝、赤貝、バイ貝は日本国内では何処で獲れますか。 寿司ネタで有名なミル貝、トリ貝、赤貝、バイ貝は日本国内では何処で獲れますか。 ちなみにその産地は何処でしょうか。
    アンサー
    回答

    みる貝は伊勢湾
    とり貝はわりと全国的にとれます。
    10〜20メートル深の砂泥地ですから船でってことですけどね。
    養殖物が安く出回って味も良いですよね。
    赤貝は内湾の砂泥地ですが、数が少ないのでお高くつきます。
    また、貝殻をよく見ると、赤貝といってもスジスジの数の少ないものはさるぼう貝というバッタもんですので、
    お寿司屋さんで、貝殻もあるところなら安心です。
    バイ貝は、出回ってるのは本当のバイではなく、広域的な意味でのバイの貝ってことなので蝦夷バイ貝とか色々あり長くなるので省かせていただきます。
    暮らしと生活ガイド > 料理、レシピ > 料理、食材
    詳しくはこちら
    • 同意数8(9-1)
    • 回答数1
    • 投稿日時 - Wed, 11 Sep 2019 15:06:51
    • 閲覧数 9
    質問

    エギングで下げ潮わ釣れにくいとネットに書いていましたが、上げ潮と下げ潮でわどれぐらい釣果が変わるのでしょうか?下げ潮わほとんど釣れないのですか? エギングで下げ潮わ釣れにくいとネットに書いていましたが、上げ潮と下げ潮でわどれぐらい釣果が変わるのでしょうか?下げ潮わほとんど釣れないのですか?
    アンサー
    回答

    地域性やポイント特性もあるので、一概に「下げ潮は釣れにくい」ということはないですよ。
    ちなみに、親烏賊に関して言えば私のショアベストは下げ潮の夕マズメ狙いでの釣果です。
    そのポイントは内湾からの航路になっていて、上げ潮でベイトやアオリも流入してきます。相当潮流は早いです(河口付近の川なみ)。
    かれこれ10年くらい前になるけど、当時は大潮満潮が狙い目と言われていたので、このポイントも上げ止まりになると帰っていくアングラーが多く、下げ潮では殆どポイント独占になる事も少なく無かったです。

    何故、そのポイントの下げが良いのか?という点は、潮流も早いので、下げ潮になると内湾へ流入したベイトが今度は一気に流れ出てきます。(目視できます)
    ベイトが視認できない時はハズレ日ですが(笑)
    なので、アオリも航路の出口の払い出し部分付近で待ち伏せしているんです。
    しかも、餌木は潮流で沖へも送り込めるので、非常に広範囲に攻めることも可能で、下げ始めたて潮が動き出しベイトが出ていくのが視認できれば、それに合わせるようにエギを送り込めば勝手にポイントへ届いてしまいます。
    100発100中という訳ではないけど、明らかに知っているだけで釣果に差は出ました。

    これが上げ潮だと早い潮流でエギが手前に寄ってくるので下げ潮に比べると、エギを送り込める距離は短く、約30m強の幅の航路で他のアングラーがひしめき合っていると、そのプレッシャーで内湾まで中々入ってこないんだと思います。
    なので、思うように釣果が伸びない傾向がありました。
    そういうこともあり、必然的に下げ潮の方が理に適った攻め方が出来ていました。

    これは下げ潮狙いのポイントの一つ。

    後は、海岸沿いとかでも、大潮の干潮時しか足を踏み入れれないポイントもあります。
    なので「下げは釣れにくい」ではなく、それは「下げで釣り難いポイント」というだけの話だと思いますよ。
    スポーツ、アウトドア、車 > アウトドア > 釣り
    詳しくはこちら
    • 同意数-8(7-15)
    • 回答数4
    • 投稿日時 - Sat, 24 Aug 2019 11:25:27
    • 閲覧数 65
    質問

    防波堤で魚釣りをしたのですが、 防波堤で魚釣りをしたのですが、 これはなんの魚でしょうか?
    ちなみに場所は三河です。

    あと、食べられるものでしょうか?
    アンサー
    回答

    「サッパ」で間違いありません。
    岡山県名物のママカリはこの魚で、酢締めがポピュラーですね。
    もちろん塩焼きや唐揚げなんかもできますが、できれば10匹くらいは欲しいところですね。
    ただ、結構水質の悪い内湾なんかにもいる魚なので臭いがする場合があり、あまり重宝しない地域も多いです。

    ご参考・・・
    https://www.honda.co.jp/fishing/picture-book/sappa/
    スポーツ、アウトドア、車 > アウトドア > 釣り
    詳しくはこちら
    • 同意数-6(0-6)
    • 回答数7
    • 投稿日時 - Thu, 22 Aug 2019 17:25:00
    • 閲覧数 44
    質問

    徳川家康はなぜ、遠く離れた当時寒い江戸に幕府を開いたのですか?
    アンサー
    回答

    家康が江戸に「幕府を開いた」のは、たまたまでもなければ、迷った末でもありません。秀吉による移封で関東に移ったときから、「政権を取るなら、この江戸でしかない」と家康は確信していたはずだ、と私は考えています。

    家康は、源頼朝を尊敬し、吾妻鏡を熟読していたといいます。
    つまり、「長続きする武家政権を作るためには、どうしたらよいか」を頼朝から学ぼうとしていたのです。
    ここで「源氏を名乗れば征夷大将軍になれるんだ」とか「清盛が頼朝を殺さなかったから後で痛い目を見た、だから豊臣秀頼は必ず殺さなきゃ」とか、そういうことを学んだんだと言うヒトが多いですけど、そんなのは全く本質ではない、枝葉末節の事柄に過ぎません。
    家康が頼朝を模範にしたのは、「武士の政権を長続きさせるためには、どういう仕組みが相応しいか」という、ポリシーの問題においてです。そして論理的な帰結として、「武家政権は、関東にこそあるべきだ」ってことを学んだのです。

    平清盛ははじめて武家政権を作ったものの、平家政権は一代で滅び、代わって頼朝が作った鎌倉政権は長続きしました。この差はいったい、どこにあったのか。
    平清盛は京都で太政大臣として権力を握ると、海外貿易を盛んにして国を富まそうとしました。これは本来の支持基盤であった武士のニーズに応えたものだったかといえば、結局そうではなかった、だから支持が離れた。
    どこが間違っていたのか。
    清盛は、京都で「貴族の親玉」になってしまいました。貴族ってのは何かといえば、自分は労働せず。権威をカサに農民のアガリをかすめていく連中です。
    でも、武士たちが望んでいたのは、そんなやつらが支配する社会ではなかった。
    武士というのは本質的に農業経営者であり、「一所懸命」です。自分の領地を保証してくれて、「おまえの土地で生産したものは、おまえのものだ」と言ってくれる指導者を望んでいたんです。
    つまり、京都朝廷で貴族に混じって出世したのでは、武士の心は掴めないのです。
    頼朝が清盛の「失敗」を反面教師として学んだことは、
    「京都から離れた土地に、貴族の朝廷とは独立した政権をつくる。自分が貴族になっていはいけない。目先の儲けに走らず、第一次産業の従事者の利益を大切にするのが、正しい武家政権だ」ということです。
    頼朝の作った鎌倉政権は、この方針で成功しました。しかし、そのあとを継いだ足利政権は、ことごとくこの逆を行ってしまい、従って権力基盤が安定せず、戦国乱世を招きました。

    家康は、いよいよ天下が目前に迫ったとき、かつての平清盛の失敗を、「関白太政大臣」豊臣秀吉が、まさにそのまんま繰り返していることに気づいたことでしょう。まるで武士ではなく商人の親玉のような思考、いたずらな海外拡大政策、これは平家と同じく一代で潰れるに違いない。
    ならば、自分はどうするか。
    頼朝を見習うべきです。京都の天皇のすぐそばにいて関白だの太政大臣だのという朝廷のトップになるのではなく、「征夷大将軍」つまり遠征軍の長官という肩書きを取って、「ずっと遠征中です」という建前で、京都から遠く離れたところに政府をつくる(これを幕府、と呼びます)。中央集権制を目指さず、武士(大名)たちの土地の支配権を最大限尊重してやる(これを幕藩体制といいます)。商業より農業、海外進出より内政重視。そのためには、京都や大坂ではなく、関東に新政権を作るべきだ、と家康は考えたわけです。
    家康は、吾妻鏡の本質を理解していた、といえます。

    家康が、関東のなかでも、鎌倉でも小田原でもなく、江戸に本拠地を定めました。「鎌倉、小田原に比べて、江戸には無限の可能性がある」からです。
    家康に「江戸に城を築け」と進めたのは秀吉である、という説があります。本当だとすれば、なんでか。秀吉も家康も実際に江戸を見たことがあったわけではないはすですが、地図を見ただけで分かります。江戸と大坂は、ものすごくよく似ているんです。
    昔は海の底。低湿地。河川の氾濫。でも大規模な改良工事をすれば広大な土地が出来上がる。
    内湾の奥にあって、ものすごくいい港ができる。
    交通の要衝。いくつもの街道の結節点になりうる。

    誰がどう考えても、関東に大都市を作るなら、江戸しかない。山が迫ってる小田原は、残念ながらもうこれ以上の発展の余地はないが、江戸ならいくらでも発展の可能性がある。
    秀吉による大坂の街づくりの成功を目の前で見て知っている家康が、関東でなら江戸以外を選ぶわけがない。秀吉も案外、それが分かっていたから江戸を勧めたんだと思う。秀吉は実は、家康を日本統治のパートナーとしてものすごく頼りにしていた。「家康殿、日本のために、東にもうひとつ大坂を作ってくりゃー」くらいの意図があったんです。

    もちろん、そのためには、関東をバラバラにして何人かに分け与えたのでは。到底無理。江戸の低湿地を沃野に変えるためには、河川の大規模な改造が不可欠だから。なので、関東全域を、一人の実力者にドーンと任せなければならない。これをやれるのは家康しかいない。家康に任せるなら、根こそぎ引っ越して関東に全力を投じて貰わなければならない。
    つまり、最初から「江戸ありきの家康関東移封」なんです。


    関東一円は北条の領地でしたから、北条が滅んだあとに転封されてきた家康にとっては、もとの敵地・小田原に入るより、全く新しい本拠地を「建てる」ほうが、フレッシュなニューリーダーの印象を与えられる、というのは確かですが、問題だったのは「自然環境」です。地政学的に絶好の位置にある江戸ですが、周囲の土地が湿地帯でなかなか開発が難しいのです。
    そのために家康は関東全域の大改造を行い、利根川の付け替えという大規模事業で広大な湿地を農地や都市など有効な土地に転換することに成功しました。これは文句のない偉業です。

    京都のまわりに本拠を置いても、たいした発展は望めません。しかし関東には広大な未開の土地がある。未開、ってことは、これからいくらでも増やせるってことです。歴史はいつだって、生産力を握った者が勝ちです。家康は「江戸を本拠地にした」からこそ天下が取れたのです。
    教養と学問、サイエンス > 歴史 > 日本史
    詳しくはこちら
    • 同意数17(19-2)
    • 回答数8
    -PR-
    -PR-
    -PR-
    -PR-
    -PR-
    ページ先頭へ